冷たく昏い狂気
僕の中には、冷たく昏い狂気が眠っている。
多分、僕が、生について前向きになれない理由は、これなのかもしれない。
まっすぐに生きていく、溢れる様な生命力に憧れはあるものの、僕は、永遠に続く夜を望んでいるのだろう。
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僕の中には、冷たく昏い狂気が眠っている。
多分、僕が、生について前向きになれない理由は、これなのかもしれない。
まっすぐに生きていく、溢れる様な生命力に憧れはあるものの、僕は、永遠に続く夜を望んでいるのだろう。
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今回は、生きる原動力について、色々と話しました。
漠然と感じている「動機なき生」について、色々な話をしました。
自分でもうまく説明することができなくて、ちょっとややこしくなりましたが、概ね、話したい事は話せたので、良かった感じです。
主治医も「生きる意味」が見えないのなら、カウンセリングは続けた方がいい、という、アドバイスもありましたので、今後も続けようと思っています。
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生命にとって、死とは、やがてきたる事象です。
遅かれ早かれ、誕生した生命は、死に向って、少しずつ崩壊していくものです。
これは、原因がなんであれ、消極的な崩壊(自然崩壊)と積極的な崩壊(意識崩壊)とに別れると思います。
消極的な崩壊とは、自殺以外の死に対するもので、積極的な崩壊は自殺そのものです。
人は、いずれ死という終焉を必ず迎える事になっているのに、積極的に死のうとするのは、なぜでしょう?
かつて、僕も、死への羨望を抱いた事がありますが、それは明確な目的があった訳ではないような気がします。
ただ、終焉へと自らを導く事によって、何かから解放される様な気がしたのは確かです。
今は、自殺を考える事はありませんが、「生きる目的」も、ないような感じです。
とりあえずは、生命維持の欲求に従って生きている、と、いう感じでしょうか。
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かつて、真剣に死にたいと思ったことがある。
それは、非常に魅力的な選択肢で、自らの終焉を自ら行うというのは、何かしらの意味があるように思えていた。
今は、死ぬ事に魅力を感じてはいないが、かといって、前向きに生きていきたいとも思っていない。
きっと、人が前向きに生きる為には、何かしらの動機が必要なのだろう。
僕には、その動機が欠けている様な気がする。
「動機持つもの」は、どのように獲得していくのだろうか。
疑問は、いつもつきまとう。
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世の中には、善や悪、聖や邪といった二元的な価値観に支配されているのではないだろうか。
しかし、善も悪も、聖も邪も、全ては等価値でしかない。
世界に観察者という存在がいるのであれば、その観察者の立ち位置によって、全ては決定される。
それは、あくまで相対的なものであり、絶対的なものではない。
そもそも、社会の価値において、絶対という概念は存在することができないはず。
社会の価値は、相対的な複数の観察者による、観察結果の一つに過ぎないのではないか?
人は、己の中や社会の中に、無意識に観察者の存在を持ち、その観察結果に基づいて価値判断を行う。
違う価値観をもつ観察者を持つものは、価値という概念において違いが生じてくるのだろう。
僕が、このような考えを持つことになったのは、僕にとって、生命活動そのものに対する欲求の希薄さからきている。
僕は、生命活動において、有意義な目的を持てないでいる。
社会的な地位や名誉を、僕は欲していないし、自分の複製を残したいという欲求もあまりない。
それが何故なのか、僕には解らない。
人は、何を求め、何に対して、生きることの有意義さを見いだすのだろう。
世の中に絶対の存在がない以上、相対的な何らかの価値を、人は見いだしているのだろうか。
僕には、よく解らない。
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僕自身、ユングの提唱する「集合無意識」というものを肯定していない。
ただ、人類がもつ普遍的な「深層無意識」が発生するであろう可能性については、考慮すべきだろう。
士郎正宗のコミックス「攻殻機動隊」では、人は電脳化し、リアルタイムでネットで繋がっている。
このような環境の中では、多数の人間の意識と無意識が混ざり合い、ある意味で「集合無意識」を形成することがあるのではないだろうか?
ネットに散らばる多数の情報の共有化による、新たな無意識の形成という事態はあり得るのではないだろうか。
実際に、検証できるものではないが、実験としては、かなり面白いのではないだろうか?
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それは、形を変えながら、ゆるやかに流れる雲のようなものだった。
僕は、風の音を聴きながら静かに横たわっていた。いつから、こうしているのか、記憶は曖昧で、ただ、さわさわという音だけがこだましていた。
揺れるのは黄金色の麦穂だろうか、囁く様に聞こえるその音は、どこか遠い彼方に置いてきてしまった、はるかな記憶の中にあるように思えた。
いつの日か−
そう、いつの日か辿り着けるだろうと思っていた空は、どこまでも澄み渡り、手を伸ばせば届きそうで、それでいて僕の手は、それを掴むのにはあまりにも小さいような気がした。
僕は、静かに手を伸ばし、ゆっくりと空の遠さを実感する。
過ぎ去った記憶は、きっとどこか−、そう、ここではないどこかに、そっとしまってきたのだろう。触れれば、泡の様に消えてしまうであろうそれは、きっとかけがえのないものだったのだろう。
それは決して癒えることのない傷のように、どこかに沈んでいった。
僕は伸ばした手を戻し、ゆっくりと空を仰ぎ見る。
揺らいでいく雲は、僕の脳裏に浮かんでは消え、いつしか、暗闇の中に吸い込まれていった。
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人が生きる為に必要なものは、幾つかあると思う。
生命としての活動を行うのに必要な根源的なもの。
人が人であるための精神的なもの。
精神的なものについては、一つではないと思うのだけれど、僕には、どうにも欠けている様な気がしてならない。
何が欠けているかというと、それは、どうにもはっきりしないけれど、少なくとも「生きる」ということに明確な目的を持てないでいるのは、間違いないと思う。
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知り合いから、痛烈に批判されましたが、なんというか、お腹のあたりが、なんだか苦しい感じになりました。
悔しいとか、悲しいとか、そういう感じはなく、なんだかツライような、そうでないような…
以前なら、もっと違う感情を抱いたかもしれないけれど、今のこの状態はなんとも言えない感じです。
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9月の診察では、東大医学部附属病院で行った検査について、少し、話を聞きました。
言語的なIQが高いこと、図解的なIQが若干低めなこと、神経症的な傾向があることなどを話してもらいました。
IQに関していえば、1度の検査で確定できる要素ではないので、参考程度に思っています。
神経症的なところがあるのも、まぁ、僕自身、思っていた事なので、改めて再確認ということでしょうか。
今回も処方に変更はなし。
けれども、主治医とのコミュニケーションは以前よりもよくなっているような気がします。
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